京都の画廊/ギャルリー宮脇ロゴ

ジーン・マン × いしいしんじ at ギャルリー宮脇 2011, 秋

☆ 小説家いしいしんじLmaga.jp今秋の展覧会ベスト予測 選定企画!

Gene Mann
ジーン・マン新作展
夜明けに吹く風

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会期/2011年10月15日(土)〜11月6日(日)
 1PM~7PM 月のみ休 入場無料
但し10月15日と28日は6PM迄(予約制イベント開催日)
※ 初日の前夜10月14日夕刻6時〜作者来日レセプション
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会場/ギャルリー宮脇 www.galerie-miyawaki.com
京都市中京区寺町通二条上ル東側(お茶の一保堂北隣り)


以下に、いしいしんじ出演記念イベント情報と、
本展のための特別エッセイを掲載しています。


30x30cmの小タブロー45点による壁面展示が出現予定(立っているのは作者)→



☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 予約制スペシャルイベントのお知らせ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

いしいしんじ 朝吹真理子
10月15日 午後7時開演/スペシャル対談
いしいしんじ× 朝吹真理子
「朝の息吹をかわしあう」
気鋭の小説家いしいしんじと今春の芥川賞受賞作家・朝吹
真理子が聴衆をジーン・マンの作品世界へと誘います。

参加費1,000円<要予約>定員50名/申し込み先着順

10月28日 午後7時開演/小説創作ライブ
いしいしんじその場小説
「ジーン・マンに捧げる」
いしいしんじがその場の空気や人々と呼応しながら即興的
に言葉を書き下ろし読み上げてゆく小説創作のライブ。

参加費500円<要予約>定員50名/申し込み先着順

お申し込みはギャルリー宮脇まで、氏名/電話番号/参加人数をお知らせ下さい。
TEL 075-231-2321 FAX-2322
画廊がイベント会場になります。


ジーン・マン展のためのいしいしんじ特別エッセイ

展覧会パンフレット『螺旋階段』第89号に寄稿されたエッセイ全文をお読みいただけます。
ご希望の方には展覧会期中無料でパンフレットを郵送致します。info@galerie-miyawaki.com


「絵を生きる」時間
  いしいしんじ

 わたしたちは幼いころ誰もが画家だった。鉛筆、クレヨン、油性ペンをにぎりしめ、目の前に広がる大海、模造紙やチラシの裏、包装紙、ときには壁や戸板の上へ、胸を高鳴らせながら、単身泳ぎでていった。そこでは、花や動物や父母の顔といった、あらかじめ、こころに決めたものを描く、ということはなく、全身をばたつかせているうち、紙の上に残る軌跡がそのまま絵になった。なにかを表現したいとか、描きだしたいという欲求は二の次だった。それ以前に幼子は、描いているあいだ、「絵を生きている」。言葉や理性をこえたそうした衝動が、何十年「絵を生きる」ことをつづけようが、涸れることなく噴きだしてくる希有なスケールのひとを、わたしたちは「画家」と呼んでいる。
 はじめてジーン・マンの黒光りする作品を見たときの印象をよくおぼえている。そんなに大きな作品ではなかった。ギャルリー宮脇の三階、常設展示コーナーの隅で、宝箱からそっととりだすように見せてもらった。「生きている」「いま、ここで、生きている」、絵がそうささやきかけていた。もちろん、耳にじかに響く言葉ではない。幼子が全身をのたくらせ、未知の海を泳いでいく動きそのままに、画布のあらゆる細部、絵全体、向こうとこちら側から、まばゆい光の声がやわらかくうねり、その場にこぼれだしていた。出会いのその瞬間は、僕にとって永遠だし、あの声はまるで時が停まったように、僕のからだでこだまし、いまも響きつづけている。
 今年二月のある日、ギャルリー宮脇から電話があった。今日梱包し、ヨーロッパに送り返さなければならないジーン・マンの絵を、どうしても見ておいてほしい、という。夕暮れに自転車をとばして駆けつけた。黒く発光する画布が、壁に二枚かけられてあった。その声は巨大だった。僕はうっそうとした森に一歩、また一歩と近づいていき、そうと思っていたら瞬時に、森の奥にひろがる薄闇のなかへ頭からのみこまれていた。
 足もとは、くるぶしまでひたひたの水につかり、歩をすすめるごとに、跳ねるような水音が、ぴしゃ、ぴしゃ、と木々の葉に反響した。木漏れ日のやってくる樹冠の先が足がすくむほど高く、とても仰ぎ見ることはできなかった。一畳分はあるシダの葉がたれこめる下を歩いているうち、嗅いだことのない、けれど甘やかな、なつかしい匂いが鼻をくすぐった。料理でも果物の香りでもない、よりもっと「生きている」感じの、いってみれば、なま暖かい巨大生物の吐く息か、陽光を吸いこんだ毛皮のような、いま、ここで息づく「いのち」の匂いが、からだの内外にまとわりついた。僕は、森というより洞窟か、なにかの内臓を伝い進んでいくような感覚に駆られた。この森をたったいま、自分とともに、毛むくじゃらの巨大なけものが、鼻を鳴らしうろつきまわっているのがわかった。足もとの水をたたき、地ネズミのような小動物が跳ねていくのもわかった。人間は、そこかしこにひそんでいる気配があり、かとおもうと天体のような目が、森の真上から見おろしている感じもあった。このまま森のなかを永遠にさまよいつづけることになるかもしれない、それでもかまわない、と僕はおもった。
 ジーン・マンは主に絵筆を使わず、両のてのひらで画布に絵の具を塗りこめていく。全身の波打ち、うねりが、そのまま描線として絵の上にあらわれる。あるいは途中から、絵のうねりに乗って全身で泳いでいく、という感じがあるかもしれない。あらかじめ決まったテーマ、狙いなどはなく、からだを動かしつづけているうち自然と、太古のいきものの影や森にたれこめる植物、ひとびとの後ろ姿が画面上にあらわれる。彼ら彼女らは、とうの昔に、しずかな足音を残し、この世から歩み去ってしまった。けれども画家のからだを通行路に、いま、ひょっこりと画布の上に、こうしてあらわれ出てくれた、そんな風にみえる。何千、何万年を越えてきた死者たちが、甘やかな息を香らせながら、おだやかにささやきかけてくる。「生きている」「いま、ここで、生きている」。ふだん、おおぜいの目にはうつらない、こうしたひとびとにとって、画家ジーン・マンは血のつながった、永遠の子どもなのだ。
 新作展「夜明けに吹く風」直前、やはりギャルリー宮脇から電話があり、自転車を飛ばして駆けつけた。壁の上に45の顔の絵が整然とかかっていた。僕は左上の隅から一枚、また一枚と対峙し、きこえてくる声、うしろに見え隠れする色かたちを楽しんだ。もっていたノートに、ひとつひとつについての記述がある。「老人と赤ちゃんの一体化」「泣きたいのをがまんしている母」「黒い知性、後悔、歴史を食べている」「何年ぶりかに明るい戸外に出て高い塔をみあげびっくりした」「人類史上初めての笑み」。
 自分かもしれない、という顔もあった。目をそらすともうそれは別の顔になっていた。「焼け焦げている世界で、なにか笑えるものをみつけたひと」という記述の横には「画家自身」と走り書きが残っていた。すべての絵が、たったひとりの人物の、45通りの相貌にみえ、また逆に、死者、生者もふくめ、この世に生きてきた全人類の顔が映しだされているようにもみえた。
 「夜明け」は移り変わり、「風」は吹き渡る。同じように、ほんとうの顔も、一瞬たりともそこにとどまってはいない。光が当たれば眼窩に影が落ち、くちびるはうねり、頬がもりあがる。名前のついた、情報としての顔ではない、できごととしての顔、風景としての顔がここにある。鼻筋の尾根を伝い、瞼の谷を歩き、頬の砂丘を歩いてみる。顎のラインから曙光がさし、鼻の穴に黄金色の風が吹き通る。そうしてまたゆっくりと陽が落ち、あたりに洞窟のような薄闇がたれこめると、かがり火に照らしつけられ、45の顔が揺れながら浮かびあがる。「見ている」と思っていたのが、むこうからも「見られている」ことにようやく気づく。絵のむこうから、わたしたちの顔を珍しげに見つめている! あいだをとりもってくれたジーン・マンが物陰でしずかに笑みをこぼしている。
 生死を超え、画家、絵、わたしたちは、語り合うことができる。大人のこわばった殻を脱ぎ捨て、うまれてきたままのしなやかな裸身を自由にのたくらせ、45の風景に、波打つ顔の上に、勇気をもって泳ぎだしていきさえすれば。ほんものの絵の上では、描くことと見ることは、同じく「絵を生きる」こととして重なり、人間同士の深いところで、共鳴しあうものなのだ。以下に記す、ささやかなエピソード通りに。
 2008年の秋、ギャルリー宮脇で行われたジーン・マン新作展「壊れやすい群像」の会期前、画廊の宮脇豊氏は展示の準備に追われていた。30いくつの絵を抱え、らせん階段を登ったり、また降りたりの毎日だ。作業のあいだ宮脇氏は、CDプレイヤーで画廊内に音楽を流していた。とりたてて愛聴していたわけでもないのに、現代音楽家ギャビン・ブライアーズの「イエスの血は決して私を見捨てたことはない」(僕も持っている)が目にとまり、こればかりをくりかえしかけていた。単に忙しすぎて、CDを交換するのが面倒だったか、忘れていたのかもしれない。
 11月半ば、ようやく準備が整い、ジーン・マン本人も、オープニングレセプションに合わせて来日した。開場前の画廊にはまっさらな空気がたちこめ、かけられたばかりの新作群は清冽な光を放っていた。ガラス戸をあけてはいってきた画家は、一瞬表情をこわばらせ、宮脇氏をふりむいていった。
「この音楽は?」
 宮脇氏は息をのんだ。つい習慣で、例のCDをかけたままにしてあったのだ。どういう理由でかわからないが、ジーンの気分を害したろうか。
「すみません、すぐとめます!」
「そうじゃなくて、どうしてこれがかかっているの?」
 画家はまるで音が目にみえるように、画廊内をみわたしていった。
「ここにある新作を描いているあいだじゅう、わたしはアトリエで、ずっとこのCDを流していたのよ!」

(2011年9月記)


いしいしんじ(Shinji Ishii)は、1966年大阪生まれ。現在京都市在住。小説家。1994年『アムステルダムの犬』でデビュー。2000年に初の長編小説『ぶらんこ乗り』。2003年『麦ふみクーツェ』で坪田譲治文学賞。2004年『プラネタリウムのふたご』、2006年『ポーの話』、2007年『みずうみ』、2009年『四とそれ以上の国』が、それぞれ三島賞候補。ほかに『いしいしんじのごはん日記』『熊にみえて熊じゃない』『遠い足の話』など。講演、ラジオ番組、蓄音機ライブなどでも活躍。いしいしんじのごはん日記


ジーン・マン(Gene Mann)は、1953年フランスのグルノーブル生まれ。現在ジュネーブ在住。今春、ピカソやエルンストの扱いで知られるジュネーブの名門画商ギャルリィ・クルジエで個展を開催、現代美術の祭典アート・バーゼルにも出品し、セルフトート・アーティスト=アウトサイダー・アートの流れから現代絵画の超新星として注目を集めた。本展は3年振り4度目の日本展で、レリーフ状タブロー、LP盤や蛇腹本に描いたペインティング、モノタイプなど多彩な形態の作品を発表する。既存のホームページへ(ギャルリー宮脇HP内)