小牧源太郎 Gentaro Komaki(1906〜1989)

日本回帰のシュルレアリスト

日本美術史上屈指のシュルレアリスム絵画代表作を生んだ小牧源太郎。仏画的時代を経て
「稲荷」や「道祖神」といった日本の土俗信仰に根差した民俗学的主題や、独自の
宇宙論的世界を創造し「非合理の美学」を追求し続けた。

小牧源太郎はいわゆる通例的な画家としての修練は積んでいない。1933年、27歳の時に
京都で展覧されたエルンスト、タンギーなどの作品に興味を持ち、翌年「須田国太郎展」
の会場で見かけた画家の姿にあこがれたという動機で独立美術研究所の門をたたいた。
そして僚友の北脇昇と共に京都発信の前衛絵画パイオニアとなったのである。

小牧源太郎は、見えるもの、見たものを描く画家ではない。突飛かつ極めて理論的に体系
化された自己の思想哲学を、唯一無二のヴィジョンに造形化することのできた真の天才
画家であったと言えよう。小牧源太郎が、民俗学や宗教への関心と並んで心理学や
精神病理学、児童美術研究への深い理解を示していたことも注目される。

ギャルリー宮脇では、生涯京都で制作をつづけた小牧源太郎の地元画廊として度々重要な
個展を催し、独自の資料を刊行をするなど小牧源太郎の画業の世に問う活動を行ってきた。
没後も評価の高まる「時代を超越した画業」の継続的な紹介に努めている。


小牧源太郎目次
 
同一ページ内下部の各見出し
へリンクしています。


ギャラリー
 画 歴 

インタビュー
非合理の美学 ― 私の絵画論
デケメンと胎内空想
シルエットについて
宗教性について


小牧源太郎 油絵作品

ギャルリー宮脇では、小牧源太郎の初期名作をはじめ、晩年にかけて精力的に生み出された緻密な画面処理とグラフィックな装飾性をもった
秀作群「パット・パルマ」「ラブラブミイミイ」など美術館に大作が所蔵されているのと同じタイトルの小品を多種常設しています。
小牧源太郎の油絵「猟人日記」
「猟人日記」3号 1955年

小牧源太郎の油絵「いろは No.5」
「いろは No.5」SM 1965年

小牧源太郎の油絵「景観 No.7」
「景観 No.7」3号 1969年

小牧源太郎の油絵「観 No.1」
「観 No.1」6号 1973年

小牧源太郎の油絵「パット・パルマ」
「パット・パルマ No.7」4号 1983年

小牧源太郎の油絵「エスクーデ」
「エクスーデ」8号 1986年

小牧源太郎の油絵「ラブラブミイミイ」
「ラブラブミイミイ No.5」SM 1987年

小牧源太郎の油絵「クンフト」
「クンフト No.1」SM 1989年

作品の詳細、価格、在庫などは上記作品タイトルにてお問い合わせ下さい
E-mail→ info (a) galerie-miyawaki.com


小牧源太郎 略年譜

1906年 京都府中郡大野村に生まれる(現在の京丹後市大宮町)
1933年 立命館大学卒業
1935年 独立美術研究所に入所
1937年 第7回独立美術展に「夜」初入選
1939年 美術文化協会創立に会員として参加
1947年 日本アバンギャルド美術家クラブ結成
1954年 美術文化協会を退会
     美術団体アルファ芸術陣を結成(翌年退会)
1957年 京都市美術館にて回顧展
     サンパウロ市近代美術館にて個展
1961年 国画会に会員として入会 以後毎年出品
1975年 東京、京都の国立近代美術館主催の「シュルレアリスム展」出品
1979年 「小牧源太郎 その軌跡展」をギャルリー宮脇にて開催
1981年 「軌跡の断章 小牧源太郎展」を京都朝日会館にて開催
1985年 「小牧源太郎 〜その軌跡と展望〜 展」を、いわき近代美術館(福島県)
     鯖江商工会議所美術館(福井県)にて開催
1986年 「前衛芸術の日本 1910-1970」(パリ・ポンピドゥーセンター)に出品
1987年 画集「小牧源太郎/シュルレアリスムの実証-貌」刊行(講談社)
1988年 画集出版を記念した個展をギャルリー宮脇で開催
     第一回京都美術文化賞受賞
     「非合理の美を求めて 小牧源太郎展」を伊丹市立美術館にて開催
1989年 10月死去
1990年 「小牧源太郎を偲ぶ油絵展」がギャルリー宮脇にて開催
1991年 「小牧源太郎デッサン展」が伊丹市立美術館にて開催
1995年 「七回忌 小牧源太郎油絵展」がギャルリー宮脇で開催
1996年 「小牧源太郎遺作展 増殖するイメージ」が京都国立近代美術館で開催
1997年 「小牧源太郎ふるさと遺作展 胎内幻想の回帰」が京丹後市・大宮ふれあい工房で開催
2006年 「小牧源太郎生誕100年 日本回帰のシュルレアリスト」がギャルリー宮脇にて開催
2012年 「造形思考 小牧源太郎展」が京都・中信美術館で開催
2014年 「丹後の前衛 小牧源太郎・上前智祐展」が京丹後市・大宮ふれあい工房で開催
2019年 「小牧源太郎展」が京都府文化博物館で開催
     「没後30年 小牧源太郎展」がギャルリー宮脇で開催

※ 作者の生活史、画歴、著作物、作品については詳細な記録が残されており、詳しくは、小牧源太郎・シュルレアリスムの実証<貌>
(講談社1987年 ISBN4-06-203177-9) をご参照いただきたい。当画廊に僅少在庫ございます。¥10.500-
その他、上記画歴にある公立美術館での展覧会に伴う図録がある。
 

小牧源太郎 インタビュー

非合理の美学〜私の絵画論
その1「デケメンと胎内空想」

聞き手:宮脇一郎(M) ギャルリー宮脇発行『螺旋階段』第15号 (1980年4月刊) より転載

 前の『螺旋階段』13号に掲載の「生と負の系譜」に、先生の生い立ちいついてお書きになっていますが、小さいときから妄想癖、 特に巨母空想・体内空想を妄想したとか、強迫観念にとり憑かれていたとかいうのがありましたね、私は、その辺の先生の特異な少年期の話に とても興味を覚えました。というのは、その後、先生が絵を志されてから今日迄、作画の根底に常にそういうものが尾を引いていて、それを後年、 先生はシュールレアリスムの理論と合体させて結実された訳ですが、シュールレアリスト小牧源太郎の世界を語る時、その幼少の体験は重要な 意味を持っていると思われます。そこで今日は、その辺のところ、お聞きしたいのですが・・・・・。

小牧源太郎 そうですね、私の生い立ちについては『美術ジャーナル』(1963年4月号)か『螺旋階段』 13号を見ていただければ載っていますが、その中で特に重要なことというと、私は6歳の頃、大病にかかりましてね、今でいうと急性肺炎なんですが、 それが治った後、私の体に奇妙な現象が起こったんです。つまり小学校2年生の頃には、現在と同じ身長になっていた。私の身長は5尺程なんですが、 しかし、8〜9歳でその身長というのは正に巨体ですよね、それと同時に私の肉体にいろいろな変化が起こって、つまり一人前の男性になっちゃった。 例えば、こんなこと言っていいかどうかわからんけれども、陰毛がはえちゃったんですね。これには、私の兄貴がびっくりしたようですね。(笑)まあ、 現在ならば、脳下垂体から成長を促すホルモンが異状に分泌されたというようなちゃんとした医学的な説明がつくんだけれど、当時としてはまさに怪童で、 村の人たちから「源太郎さんの肋骨は、一枚板でできている」という噂がとびましてね、それほど強大なんだと、村人の異常な関心が集まったことが あるんです。
 この頃から「デケメン」という奇妙な意味のわからん言葉を発言しだしたんです。これは簡単に言えば南無阿弥陀仏、キリスト教のアーメンと同じで 一種の呪語なんです。じゃ、どういう意味があるかというと「デケメン」つまり、この想念の意味している内容は今から考えると「絶対」ということじゃ ないかと思うんです。現在の私は、逆に絶対という概念を否定する立場にいる訳なんですが。これは小さな呟きなんですが、本人は口の中で非常に 頑張って発言する。精神を集中して繰り返し繰り返し唱え、そうすることのよって精神の安定をはかっている訳だけれども、唱え終わるとまた不安な 感情に襲われる。だから一日に何回も何回も唱えるんです。そういう意味で私はこれを強迫観念的性質のものと言っているんですが。それと同じ時期に 私はいわゆる精神分析でいう巨母空想という妄想にとらわれいた。つまり、非常にきめの細かい色白の非常にきれいな肌をした人で、今おもえば巨母とは まさに私の母だったんでしょうね。それから「我れ太陽とならん」などと言い出して原始信仰的に太陽を崇拝したり・・・・・。

 そういう妄想はいつ頃まで続いたんですか?

小牧源太郎  そうですね。大病後から小学校低学年頃迄ですね。高学年になると、この妄想が将来の未来と結びついて、 大哲学者、大宗教家、大画家など、そういう人間になりたいというような誇大妄想に発展しだしたんです。そして、青年期、つまり学生時代は、所謂、 無頼派的生活で、一種のデカダンスですね、29歳で絵をやる前の私の生活は、第三者からみても、非常に不安定なものだった。左翼思想に接近したり、 宗教や哲学関係の本を読み耽ったり・・・・・母はこの私のデカダンな生活を心配して・・・・・、母の尽力で結婚が実現したんです。昭和13年、32歳の時です。

 巨母空想について、もっと詳しくお聞きしたいんですいが、巨母とは一体どういうものなんでしょうか?

小牧源太郎 巨母とは、一首の超越的な女性のことになりますね。観音さんも一種それに相当する。観音が女性かどうか わからないけれど、あれは中性なんでしょう、けれど女性的なもの、そういう印象でとらえている。マリア観音などと言いますね、マリアなども一種の 巨母とちがうんでしょうか、ともかく普遍的な巨大な力を持った女性ですね、巨母というよりも資母といった方がいいのじゃないかな、つまり資本主義の資、 これはものを生み出す、巨大なものという意味です。

 資母空想、巨母空想が絵のモチーフに現れているものとしては、具体的にどういうものがありますか?

小牧源太郎 強いていえば、「狐神図」がそれですね。戦後、稲荷さんを描き始めたのが1947年頃のことです。 「伽楼羅炎」を10Fと15Fの2点描いている。これは、戦後の出発になった作品で、その後、稲荷をやりだした。その一連の作品の四作目が 「狐神図」なんです。話をもとにもどしましょう。稲荷は農業の神で、その召使、使者として狐がでてくる。狐はあくまでメッセンジャーなんです。 ところが、一般には稲荷というとすぐ狐を連想するし、ともすると狐が祀ってあるという風にとられている。しかし、私はむしろそういう意味の狐に 興味をもったんです。稲荷さんの系譜の中で狐を描いたんだけど、それは巨母的な狐なんです。その目は私の家内に似ている、稲荷と狐と巨母が コムプレックスしたかたちで「狐神図」に登場した訳です。

 このお稲荷さんや狐は、前に出て来た原始信仰的なものと関係がありますか?

小牧源太郎 大いにありますよ。結局、私が今まで好んで扱ったもの、描いたものは、いわゆる原始信仰的なものなんです。 つまり、高度な宗教ではなく習俗化した宗教ですね、いわゆる民間宗教というか、土俗信仰というか、そういう世界に戦後は関心をもっていったんです。 どうしてかというと、人間の欲望というか本能をば、ああいう形で充足するという意味で信仰がおこなわれている訳なんです。いわゆる現世利益ですね。 つまり高度な宗教はそういうものではないわけで、例えば仏教などは、形而上的な高度な理念をもっている訳だけれど、現実の仏教の姿は結局現世利益の 方面が行なわれているんです。こういう面の宗教、民間信仰とか、土俗信仰といわれているもの、或いは、戦後急増した所謂新興宗教の多くのものなどを 総括して、私は劣性宗教と名付けているんです。こういう劣勢宗教の方に生きた民衆の息吹があり、そこにむしろ宗教の、或いは人間の本音があると 考えているんです。で、それらのモチーフとして描いた時代を「民俗学的時代」とよんでいますが、これはむしろ「土俗的時代」といった方が的確ですね。

 素朴な民衆の潜在意識の中にある願望、欲望、それがもっともストレートなかたちでできたものが民間宗教だといえますね。ですから、 日本人の潜在意識を探る場合、その辺に着目されたというのは、確かに面白いですね、もし、先生が画家でなく、宗教家になっておられたらさだめし デケメン教の教祖様というところでしょうなァ。(笑)

小牧源太郎 そうですね、民衆の無意識を掌握しておれば、教祖としても大成功しとったと思いますよ、ウン(笑)

 しかし、小さい頃、巨母を妄想されたり「デケメン」を唱えて精神を安定させたというような経験が、その後、先生に無意識の問題 へと導いていったように思えますね、そういう意味で、先生は生まれながらのシュールレアリストだと思うんですよ。ところで、先生は前に胎内空想と 巨母空想の関係についてお話しいただきたいんですが。

小牧源太郎 巨母空想において、カンガルーのように抱かれて乳を吸っていたというようなことを前に言いましたが、 これも一種の胎内空想なんです。これは精神分析でいう言葉なんですが、胎児が母の胎内、つまり羊水の中に居る状態は至上至福のユートピアだと いうわけです、仏教でいう極楽浄土ですね。蓮華の上に結跏趺坐(けっかふざ)している状態です。これは私の巨母空想、カンガルーのように抱かれて 優しく愛撫されていたというのと一致するんです。私は1939年に「生誕譜」という一連の作品を3点描いているんですが、これは所謂、胎内空想の 具体的な絵画化です、こういう風な穴みたいなところに、胎児を描いている、この中央の輪が女性性器の象徴なんです。

 この絵にシルエット、影絵がでてきますが、このシルエットと巨母空想を結びつけた意図は何かあるんですか。

小牧源太郎 特別にはないです。

 しかし、このディテイルを表現しないシルエットは、造形的には非常に抽象的ですし、又、非常に 暗示的で、作品に、ぐっと 神秘性がでてきますね。

小牧源太郎 そうですかねぇ。私はある時期、外遊(1957年)の前あたり、シルエットを使った絵を多く描いています。 「影絵日記」「猟人日記」「敗喪」などは全面的にシルエットだけになっている。少し影絵について話をしますとね、戦前「かぐや姫」の映画が あったんです、これは影絵を使った作品で、モチーフからいっても幻想的なんだけれど、とても幻想性豊だったんですね。ジャワの人形劇も影絵に よるものだし、これも大変幻想的なものですね。しかし、影絵であっても、やはり具体的な形のシルエットであるから、一つのひち限定されたものなんで、 細部(リンカク)を刻明に描けば描くほど限定されてくる。けれど、中は黒一色なので観る人はいくらでも、自由にイメージをふくらませることが できる訳なんです。水墨の世界もそれと同じ論理ですね。

 前の『螺旋階段』で中原佑介氏がシルエットについて書かれていますが・・・・・。

小牧源太郎 今迄私についていろいろな方が意見されたり文章を書いて下さったが、この点については、まだ誰も 言及されていない。これについて中原さんが特に言及されたというのは私のとって意味のあることだと思うんです。しかし私は昔からシルエットに ついて興味をもっていて、資料を集めたり、精神分析の問題とからめて見てきたんですが、これを契機に、シルエットについて私自身の自覚的な 意味において考えていきたいと思っておるんですがね。

 シルエットの問題は又機会を改めてじっくり伺うことにして・・・・・胎内空想についてもう少しお話しいただけますか。

小牧源太郎 そうですね。私の戦前の記念碑的作品である「民族系譜学」(1937年)も胎内空想を描いているんです。 あれは、画面全体を海底、あるいは湖水という風に考えてもいいんですが、私自身のつもりでは、下のほうに岩石があって、全体が水中ですね、 これは明らかに羊水で、そこに胎児が浮遊している。又、時代的には支那事変が勃発し、私はこれを民族戦争の面から捉えたんですが、それに 精神分析的意味での胎内空想が重ったんです。この中央の昆虫のようなものはセミの臓物で、ひきちぎられた人間のイメージとだぶっている、 下のカマキリは交尾しながら雌が雄を喰っていく残忍さの象徴です。そしてこのからみあった紐は系譜学を意味していて、この胎内空間の中に 破壊と生誕を渾融させたんです。しかし世の中は大戦へ大戦へと向かっておったにもかかわらず、比較的自由な雰囲気がありましてねぇ、 「うちの女房にゃ髭がある」なんて、ナンセンスソングが流行ったりね・・・・・。いわゆる帝国主義的侵略の優勢に湧きたっていたというか・・・・・ しかし現実には応召も始まっていて残された近所の若奥さんが一日泣いているような時代でしたよ。そんな中で、私にはこんなグロテスクな、 死の不安と恐怖のイメージしか浮かんでこなかったんです。
 話はちょっとそれますが、最近インド哲学史を読んでいたら、面白いことが書いてありましてね。『リグ・ヴェーダ』(ヒンズー教の経典)の中に 「金胎」(こんたい)というのがでてくるんです。黄金の胎児という意味なんですね。この金胎というのは『リグ・ヴェーダ』成立のある時期に でてきた考えなんですが、これは要するに唯一の創造神のことなんですね。この金胎の中から宇宙一切のものが、万有が発生するという考えなんです。 私は金胎という言葉は非常に面白いと思った。仏教、つまり密教では胎蔵界と金剛界と二つあるんでがす、しかしこの金胎という観念はないわけですね。 私はこの金胎というのは、胎内空想との関連である程度考えることができるんじゃないかと思うんです。これは単なる胎内ではなく、金、つまり黄金 ですからね、黄金の胎児という意味だから、今まで言っていたような羊水の中に浮かんでいる胎児というものじゃなしに、宇宙創造の原理みたいな ものにまで高揚させた言葉として非常に面白いと思っている訳です。これなんかも胎内空想や巨母空想なんかと結びつけていったら面白いと 考えておるんです。

 なるほどね、その金胎という観念を更におし進められて、それが先生の新しい発想のもととなることを期待しています。

その1おわり

ページ内ジャンプ ページ冒頭 画歴  1.「デケメンと胎内空想」冒頭 3.「宗教性について」

小牧源太郎 インタビュー

非合理の美学〜私の絵画論
その2「シルエット(影絵) について」

聞き手:宮脇一郎(M) ギャルリー宮脇発行『螺旋階段』第16号 (1980年10月刊) より転載

 1938年に「生誕譜」をはじめとして、先生の絵にはたびたび影絵が登場しますが、今日は小牧先生の影絵についてお話しを 伺いたいと思います。

小牧源太郎 私はわや戦前から戦中にかけてシュールなものをやり始めた頃から、既に影絵を描いているんです。 特に1955年から56年の一年間は、影絵だけを描いていて、例えば「敗喪」とか「夜鳥」「アクヒ鳥」「礫付けになった馬神」とか・・・・・ それ以後も必要に応じてでてくる。しかし、自覚的に自分にとっての影絵の意味とか性質については今迄考えていなかったんで、今回中原佑介さんの 文章を契機に、私らしい考え方で分析してみた訳です。だからそれが妥当かどうかわからないが、そういう前提のもとに話をしたい。 前にも言いましたが、私は幼年時、小学校時代、哲学者と画家と宗教家と、この三つのものに非常に憧れていたんですが、その中の哲学への志向が、 影絵と結びついているのではないかと思うんです。

 といいますと・・・・・。

小牧源太郎 つまり、私は小さい頃から夢想妄想癖があって、いまでも現象の諸々の事柄より、現実を超えたところの、 形而上のものについての関心が非常に強い。だから私が絵を描く場合も、具体的な形をとるモティーフより、影絵のような暗示的で、何か決定性を かいた映像が、感覚的にピタッとくるんですね。

 もう少し具体的に・・・・・。

小牧源太郎 私は自分の絵を一種の観念画だと考えています。曼陀羅のように仏教美術は全て、宇宙の真理を図式的に 象徴的に表現していて、現象や自然の風物をそのまま描いているのではなく、観念の比重が非常に高い訳です。観念自体は抽象的で無形のものだから、 それを絵画で表現するとなると、どうしても何らかの形象とか色彩が必要で、現象的なものが媒体となりますが・・・・・そういう意味で私の絵は曼陀羅に 非常に近い、いわゆる観念画なんです。ちょっと話は飛躍するかもしれないが、この観念について西洋哲学ではどう説明しているかというと、それに ついて「影」という言葉がでてくるんです。プラトンによると「イデア、つまり理念だけが唯一の実在で、従って、現象界個々のものは、イデアの影像 である」と言っている。しかし、私の考え方でいえば、「現象界の方が実在であって、イデアはその影だ」ということになる。私は、現象があくまで 先にあって、そこからいろいろな観念が派生するんだから、観念の世界は、やはり影の王国ではないかと思う。そして私には、このかげの部分、 形而上的世界の方が重要なんです。

 すると小牧先生は、ある観念を絵画化する際、シルエットを使って形象化し、「観念は現象の影だ」という理論を作画の上で 実践された訳ですね。

小牧源太郎 そういうことになるかなぁ・・・・・しかし最初から意識してやったという訳じゃなくて、結果的にそうなった ということです・・・・・。

 つまり先生の影は、ちょっと立場は違うけれど、キリコなどの、形而上的形態として使われている・・・・・。

小牧源太郎 まあ、大別すればそう言うことができますね。しかし、キリコはあくまで具体的な形をとるけれど、 私の絵はもっと図式的・図像的なものをねらっている・・・・・

 そういう意味でシルエット、つまりディテールをはぶいた平面的な造形性に興味をもたれた訳ですか?

小牧源太郎 そうです。最初は「かぐや姫」劇画を見て、影絵のもつ、抽象的で神秘的な効果を、面白いと思ったんです。 シルエットの造形に対する私の考え方は、1954年の第一回美術文化展の目録に「二次元の幻想性」というテーマで書いているんですが・・・・・つまり、 形態の二次元的抽象化による単彩性、墨絵的な表出は、観るものに限りない幻想性を与える。この墨絵的抽象は、超現実の世界にも通じるんです。 つまり、無意識下で起こる自由な連想、想像はむしろ二次元的「かたち」をとる可能性が多い。

 ミロのオートマティズムなんかがそうですね、しかし、先生の影はオートマティックなものではなしに、ある観念が凝縮された 「かたち」な訳でしょう。

小牧源太郎 ちょっと話は変わりますが、北脇昇さんが私の絵を仮具象という言葉で表現している。これは非常に 適切な表現だと思う。具象でもない、かという抽象でもないという意味で・・・・・そういう意味で影絵も非常に仮具象的なんです。だから僕の場合は、 影絵的なものがでてくるのは非常に自然なわけなんで、また、私の表現形式そのものがシルエット的だと言っておかしくない。

 具体的な作品を通して説明してもらえますか・・・・・例えば、「生誕譜」にみる影の意味は・・・・・。

小牧源太郎 そうですね、具体的にというと難しいな・・・・・描く場合は多分に直感的なんですよ、そこらへんは、 観る人が自由に連想してもらったらいい訳で・・・・・。

 私はこの絵をみて、これには先生の深層心理が、先生も気付いておられない無意識の世界が非常に欲でているんじゃないかと 思いますよ・・・・・。つまり生誕の神秘、子宮の奥で起こる生殖の神秘に分け入りたいという先生の欲求がここにはでてると思いますね。ここに 出てくる影は先生自身じゃないですか。

小牧源太郎 さあどうでしょうか・・・・・しかし、さっきも言ったように、無意識と影という問題、これは大いに関係がある。 それについてちょっと話をするとね・・・・・『浮世絵の幽霊』という本の中に、「影曼陀羅の神々たち」というのがでてくる。この神々というのは、 妖怪、魑魅魍魎(ちみもうりょう)のことで、これはつまり影の世界だというんですね。言い換えれば、来れは深層心理の世界だと・・・・・。 昔の人が幽霊をみたという場合、本当に外部に幽霊が存在すると信じていて、「見た」と言っている訳ですが、現代の人間は頭で信じていないくせに 見たという場合、幽霊を自分自身の中でつくっておいて、それに気づかないでいる。要するに自分自身の投影、独り芝居をしている訳ですよ。 影なんか無意識の世界ともいえるし、夢も影の世界だといえる。夢の場合、夢の中では行動していても、実際本人は動いていない。肉体そのものは 横たわっている訳だから。ところが夢遊病などは実際に行動するんです。ちょっと余談になりましたが、結局、影絵は意識の深いところに潜在している ものと深いつながりがある。現象の世界は明確な形をとるけれども影はそうではなく、さっきも言った三次元ではなく二次元的な世界、顕在的なもので なしに潜在的なものですね、そういう点が影絵の特性だと思うし、またその辺、面白いと思ったんですね。

 「影と無意識」これはなかなか面白いテーマですね・・・・・先生の一貫したものの見方、何かものの表面には出ていない、 裏側の秘された部分、潜在的なものを掌握したいという強い欲求、そういうものと、影自体のもつ象徴的イマージュと、抽象的造形とがピタッと 一致した訳ですね。お話しを伺っているうちに、何か先生が影に固執してこられたのがわかったような気がします。

小牧源太郎 何か実在があって影がある・・・・・そうすると影が非常に従属的で軽いものに見えてくる。しかしこの場合、 実体とは物質的世界、現象界といってもいい。とすると影は人間の内部世界のことで、これは一見実在のない希薄なものにみえてくるが、この人間の 内部世界、つまり理念が主体性の基礎になっている。理念が社会を変革し、この物質文明をリードして創った。そう考えると理念は、実体に対して弱い ものではない訳です。またこれは理想とも言いかえられえるし、これはなかなか実現しないむずかしい世界だけれど・・・・・しかし、これがあるからこそ、 現象界の腐敗を正し、論理とか進歩への志向が人間には常にある訳です・・・・・まあ影は軽いか重いかわからないが、ともかく私には内部の追求が絶対的な ものなんです。

 先生の哲学的思考、精神分析的なもののとらえ方、そして思考的背景、こういうものが裏付けとなって先生の絵画を支えている、 逆にいえばその辺に先生の発想の源泉があるように思いますね。影は小牧先生にとって、実体の従ではなく、影が本質なんですね。

小牧源太郎 そう、つまり理念が私にとっては絶対の本質なんです。この辺プラトンの学説は観念的だから理念が唯一絶対で、 現象は仮象(影)となって価値のないものになっている。ところが僕の場合は、現象があくまで実体であって、観念はそこからでてきたものだと考える訳 だから観念論者とはちがう、プラトンとは正反対なんです。理想としてはプラトンの反対者なんだけれど・・・・・ところが、僕が何をもっとも重んじ、 いかなる観念に支配されているかというと、理念、こればっかりやってきている。つまり、現象よりも理念が優先なんだ。価値があるなしは関係なく・・・・・ 理念は人間の頭脳の中で存在している訳ですが、私の場合はこの理念の追求が絶対的に重要なんで、それを影という言葉で表現すれば、影はあくまで実体の 影であるけれども、僕の場合、この影が非常に重要なんです。

その2おわり

ページ内ジャンプ ページ冒頭 画歴  1.「デケメンと胎内空想」 2.「シルエットについて」冒頭

小牧源太郎 インタビュー

非合理の美学〜私の絵画論
その3「宗教性について」

聞き手:宮脇一郎(M) ギャルリー宮脇発行『螺旋階段』第17号 (1981年6月刊) より転載

 先生の絵は一般に、超現実的であるとか土俗的手であるとかいわれていますが、もう一つ、第二次大戦中描かれた、仏画をモティーフに した絵画や、現在の曼陀羅を想起させるような画風をみますと、何か深い宗教への関わりがあるように思うのですが・・・・・。今日はその辺の、先生の絵画と 宗教性について伺いたいと思います。
 
先生は前に六歳頃大病をされた後、急に「デケメン」とかいう呪文のような言葉を呪え出し、周囲の人を驚かせたというようなことをおっしゃって おられましたが、もともと先生には小さい頃からそうした宗教への志向があったんでしょうね。

小牧源太郎 そうでしょうね。私はその頃、「デケメン」の意味を理解していた訳じゃなく、何か精神を安定させるための 呪文というか、今言えば「絶対」ではないかと考えてるんでが、南無阿弥陀仏とかアーメンにあたる・・・・・今から考えれば、私はここに私という人間の 宗教的資質が既に見える。ともかく当時は真剣だったんですよ、強迫観念みたいに、デケメンを繰り返し、精神を集中させて呪えていた。子供の頃既に、 私の無意識の中に、絶対的なものに対する狂信的な憧れというか、ともかくそれを呪えてないと不安でならなかった・・・・・。

 そういう先生の志向性が絵の中でどういう風に展開していったんでしょうか。具体的に宗教的モティーフがでてくるのは、 第二次大戦中ですね。

小牧源太郎 ええ、昭和16年から21年頃迄、仏画的な絵を描いてかいました。

 戦中は軍の統制が厳しく、西欧的な絵が描けなかったので、仏画の様式をかりてシュールな世界を描かれたとか・・・・・。

小牧源太郎 そうです、それが仏画を描くきっかけとなった訳です。当時欧米の文化はいけなかったけれど、逆に日本の 文化の研究に対しては非常に優遇されたというかち、かえってそういう勉強はしやすかった。京都・奈良はそういう意味で重宝な訳で、ところが 古美術に対して私は比較的教養がなかった。仏教についてはりくつの方面は多少知っていたが・・・・・戦争という客観的な条件で、勉強しやすい 状態にあって、学者や郷土史家などの講演会があったりしてね・・・・・。そういうものを勉強していると、私は画家であるから、自然それが絵にでる。 戦中、軍の弾圧があったからといって、それをよけるためにけるたよ何も仏画を描かなければいかんという理由はなかったはずだが、私の場合 そうなったのは、古美術の勉強を集中的にやっていくうちに、自らそちらに傾いていったんでしょう。ところが私は礼拝の対象としてそういうものを 描こうとしたのじゃなしに仏画的な内容だけれども、もとからもっているシュールとミックスしたものですね、真正面から仏教美術を描こうと したんじゃないんです。かといって、極端に仏画を変えてしまったんでは具合が悪いから一応その様式をふまえつつある面で仏教の儀軌は無視してる。

 例えば、この「仏足跡」の場合、この卍は正しい卍ではないんですね。中にはナチスのハーケンクロイツなんかが出てきますが・・・・・ 一見、仏教の仏足跡にみえながら、専門家がよくみればけしからんということにもなりかねない。

小牧源太郎 一応参考にはしているが、私自身最初から儀軌にそわなきゃいかんと思って描いていないんだから。

 この場合先生流の仏足跡はどう変容されているんですか。

小牧源太郎 普通なら、仏像や仏足跡など写実的に描くか、あるいは日本画家のように図像的・図鑑的に描くか、 いずれかじゃないですか。僕の場合、ちょっとちがっていて拓本的に描いている。又この傘が、本当は上になきゃいかんのですが、さかさまになっている。 仏さんが雨に濡れないようにという意味でしょう。でも私は、そういう意味の傘の機能を全く無視して逆に描いた。これじゃ雨が降れば仏さんが 濡れちゃいますわね。礼拝の対象なら、こういうことはしちゃならん訳です。しかし私は、仏足跡と傘というこの組み合わせが面白いと思った。 そして、傘の機能を全く無視し、形態の面白さを描きながら、傘と仏さんの足跡、上方と下方の関係を非合理に配置したんです。

 戦後、先生は「伽楼羅炎」(10Fと15F)を発表されましたね。

小牧源太郎 1946年9月頃から、少し民族学的な(と私が言っている)、あるいは、私の本当の意味での宗教的な絵を 描き出したんです。1947年のこの二点は、その転機となった絵です。

 伽楼羅炎とは一体何ですか。

小牧源太郎 不動さんの光背に火炎があるでしょ、その中心に鳥の顔、目とクチバシが描かれている、或いは彫られている のがある。その目玉が核になっているのを伽楼羅炎といっているのですよ。カルラというのはインド神話に出てくる霊鳥です。

 これは造形的にも非常に面白い絵ですが、これを描こうと思われたのは?

小牧源太郎 やはり造形的なところからですね。この絵から私の民族学的時代がはじまるんですが、不動さんを描いたというのは、 やはり戦中やってきた仕事のつづきというか、それが土台になっているんです。又これを機会にして、私の宗教に対する考え方、アプローチの仕方が 変わったんです。つまり、(仏教ではなく)民俗信仰、土俗信仰そういうものをテーマにするようになった。いわば、もっとも私らしいのがこの時に 出たといってもいいんじゃないかな。

 どうして、民間信仰、土俗信仰に興味をもたれたのですか。

小牧源太郎 仏教とかキリスト教とかいわゆる高度な宗教には形而上学的な内容はあります。しかし私は淫祀邪教といわれる 民間宗教、これを私は劣勢宗教と言っているんですが、そういう下等な宗教の方に、生な、いきいきとした生命力、人間の願望が横たわっていると 思うんです。そっちの方が人間の欲望・本能と直結したものがありますよね。

 今はやりの新興宗教なども、いわゆる民間宗教・劣勢宗教ですね。

小牧源太郎 そうです。そういうものに伝統的な淫祀宗教があるし、例えば、稲荷さんとか、おしら神、道祖神、 坊さんかんざし、これは宗教ではないけど、おヒナさんもそうですね。これらは民俗学的なものでもある訳です。(世界メシア教=観音教も そういう意味でテーマにして描いている。「ハヂチ・プリシャムリ」がそうです。

 その中の面白いものについてちょっと話して下さい。

小牧源太郎 例えば、オシラ神さまについて・・・・・
 これは東北地方にある信仰で、カイコの神様なんですね。カイコの繁殖を願ってまつられたんですが、カイコは白いからオシラというんです。 桑の木で簡単に人形をつくり布をきせる、とても素朴なものなんですが、祭りの時巫女が両手にその人形を持ち呪文を呪える、これに節がついていて 内容がとても面白い物語になっているんです。百姓が飼っている馬とその娘が恋をする、それで親父さんが怒って馬の首を切ってしまうんです。 すると馬と娘が一緒になって天にのぼっていった、という話です。これは一種の近親相姦で、ちょっと言葉がきついけれど、父親が馬に対して 激しい嫉妬をおこした。つまり父親と娘と馬の三角関係で、近親相姦的ということができる。男性に巨母空想があるように、女性には巨根空想と いうものがある、そして馬は実際に巨根なんです。それと、戦前でた民俗学事典をみると、この物語はシベリアあたりから来たのかも知れないと 記されている。どうも内容をみると日本に自然に出来たような感じがしない。

 道祖神については・・・・・。

小牧源太郎 これは普通、ちまた(四辻の道)の神、道標ですが、も一つ男性器の象徴として作られている場合が非常に多い。 昔は花柳界などの神棚にもまつられていたんですが、明治になって大政官布告なんかが出て、つまりこういうものをまつったりしてはならんという・・・・・ それでそうい習慣がだんだん消えていったんです、今でも古道具屋に時々でてるし、私も持ってます。四国の高知で買ったんですが。

 例えばこの「道祖神」は背後に放射線のようなものが出ていて、土俗的というより、何かSF的・宇宙的な感じがしますね。

小牧源太郎 発想のもとはそういうところにあっても描かれたものは全く別のものになっている。相当距離が できてしまうんですね。私の私情は合理的絵画に反対する立場にあって、この場合も、民間、土俗、習慣、宗教に対して、私は精神分析学的な 解釈をしており、精神分析的非合理性を貫いている訳です。

 太古の人達は、生な願望・欲望を大らかに発散し表出してきましたが、現代人はそういうものをなかなかストレートに出せない 状況にある。そういう抑圧された願望がずっと潜行しつづけと最後には、願望・欲望すら自覚しなくなってくるんじゃないか。そこで現代人には、 潜在下の意識を呼び覚まし、発見する為に、精神分析的切り込み方が必要なのではないか。

小牧源太郎 精神分析がいかに役立つかというと、例えば、石(セキ)神(石崇拝、後にその形状が男女の生殖器に 似ているところから性神となったもの)、これが咳(セキ)の神さんになったりして、同じ発音のものが転化している。こういうのは民間信仰の 随所にある。「菊一稲荷大明神」というのは、大明神は一番よくきくという意味だと絵私は解釈している。これを昔、ある講演会で言ったんだけれど、 あとで、それはコジツケだとかいう人があったが、しかしこれが人間の機能の本当のところなんですね。こういうところは精神分析をやっていると 気がつく。普通は見過ごしてしまうような何でもないところに大きな意味と発見があるもんです。例えば、弓削道鏡は巨大なペニスの持主だった という伝説がある。これは、どうしてこうなったかわかりますか?

 ・・・・・・・

小牧源太郎 道鏡は孝謙天皇の相手だった。女帝というのはち僕のいう巨母なんです。その巨母の相手になるからには 普通の逸物では駄目なんで、つまり巨父(巨根)としてのそれが考えられたんです。こういう図式から道鏡の伝説がでてきたんじゃないかと僕は考える。 私がなぜこういうところに興味をもったかというと、私は、人間の形而下的実体の方に関心があるんです。宗教を形而上的側面と形而下的側面にわけて みると、民間信仰は後者の方に非常に強く結びついている。人間はこうあるべきだというより、事実、こうある人間、実際の人間の姿ですね、そういう ものがヒシめいている土俗的なものを描きたいんですね。

 先生の絵画は「印相婆藪」(1965年)、「間人華鬘日輪相No2」(1969年)などにみられるように左右相称形ですが、 これは何か宗教的意味あいがあるんですか。

小牧源太郎 確かに私の絵には左右相称形なものが多い。シメントリーな構図を志向するのは、ある意味で宗教性に 通じております。というのは宗教の場合、礼拝の祭壇はシメントリーの配置がしてあるでしょう、あれは完全性の表象ですよ。

 絶対的安定感ということですね。

小牧源太郎 そうです、左右相称である場合、動かしようがないんです。礼拝の対象は不安定であってはならないから・・・・・ それと、私自身が完全性を求める傾向、絶対への志向性、潔癖性があるんです。偏執狂的ともいえる・・・・・。つまり私の絵画に宗教性を感じるというのは、 そういう私の完全性への性向、資質からでているのじゃないかな?

 最近の作品では平面性・左右相称性追求から、曼陀羅にみる図式的効果を狙ったものが多いようですが、現在先生の世界観・宇宙観も やはり曼陀羅、つまり密教の影響がありますか。

小牧源太郎 それは確かにあります。しかし、密教を信奉している訳じゃないですよ。

 第一回の対談に、古代印度の「金胎」という観念にとても興味をもたれたとか・・・・・つまり、黄金の胎児という、この巨大な エネルギーから万物が派生しているちう発想、そういう考え方は西洋の合理精神が裏付ける宇宙観からは絶対出てこないですね。

小牧源太郎 日本の弘仁・貞観時代の仏教彫刻は幽晦な晦渋性、神秘性、厳粛性がありますが、これはいわゆる当時の 日本密教そのものの特性で、私はこういうものに大変魅かれるんですね。ところで、ちょっと余談になりますがヘーゲルは自分の哲学を分類して、 下等なものから上等なものへ移行する段階で最終的に精神哲学に入り、これを三つに分けているんです。これを下から、主観的精神、客観的精神、 絶対的精神とし、この絶対的精神を更に三つに分類して、下から、芸術、宗教、哲学としている。ここで問題になるのは、この絶対的精神で、 美術芸術は直感的なもの、宗教は感情表象的、哲学は概念論的である。ヘーゲルによれば、絶対理念が下等なものから弁証法的に発展して 絶対的理念に到達し、それで一切のものを説明している。宗教は神を偶像化するなどして、概念を表象化し、芸術は、更にそれを具象化する。 つまり完全な純粋理念ではないわけです。人類が完全に純粋化されれば、観念そのもので充分な訳で、絵画も宗教もいらなくなる。形があり色彩が あるというのではまだまだこの絵画世界は下の方なんですよ。

その3おわり

   ページ内ジャンプ ページ冒頭 画歴  1.「デケメンと胎内空想」 2.「シルエットについて」  3.「宗教について」冒頭