★ WEB特別寄稿 by 神保京子 西村一成の作品には、統制の効かない無邪気な子供と、成熟し、煩悩を抱え、洗練さを身に着けた大人とが不可思議なバランスの中で共存している。西村は、大人たちが成長と引き換えに売り渡してしまった泉の在り処を知る、稀有な創造者なのだ。さらに作品が発表された初期の頃には、明快でありながら素朴さを湛えていたアクリル絵具の線とマチエールは、過去10年程の間に、徐々に躍動感に満ちた力強い筆致へと変貌を遂げた。絵画自体が身体的パフォーマンスの結露であることを物語るように、大型のキャンバス上にオートマティックに叩き付けられた肉厚の絵具には、制御不能のエネルギーが迸り、人間の内に潜む力と獰猛さ、そして剥き出しの<野生>を突き付けてくる。そこには、人類が自然と共存して生きた、原始的時代を髣髴とさせる力がある。 新型ウイルスの猛威は、今、地球を揺るがし始めている。科学技術の躍進は、ヴァーチャルな世界を舞台に利便性と効率化を生み出す一方で、本来人類がもつ生命力や五感に響く感性を鈍化させてはこなかったか。メディアに踊らされ、生命の脆弱さを思い知らされた現代人は、西村の作品を前にして、パンデミックをも覆すかのようなそのエネルギーに驚愕するだろう。生きることと描くことを同一視する画家は、自らの生を爆発的に表出させることによって、根源的な<生>の在り処に近づこうとしているのだ。 そしてこの場所へさらに直截的なかたちで迫ろうとするのが、繊細なドローイングによる一連の描写である。人物の描かれたシンプルな作品には、シュルレアリストたちが試みた集団遊戯による試み、《優美なる死骸》を連想させるものもある。作品に頻出するのは、猫と自画像と女性の裸体である。驚くような速さで描かれる線は、無意識を誘発するオートマティスムとデペイズマンの所作を素地として、日常と自己を支配する、最も甘美で 例えば家族である愛猫の姿は、夥しい体毛と単体の眼、鼻腔と口元の割れ目のラインへと解体され、平面上の舞台へとふたたび召喚される。人物の顔の器官は身体の臓器と入れ替わり、風景のなかで重なり合う。唇と瞳、ヴァギナとぺニスは宙吊り状態で錯綜を続け、リビドーの高鳴りは制御されることがない。さらに腸のように見える管は、身体の内部から一筆描きのように外界へとはみ出してゆき、湾曲した道路状の帯と一体化して、画面右手奥に度々登場するトンネル状のアーチ型空間へと吸い込まれてゆく。チューブには時に茨の エロスへの耽溺と表出によって皮膚に覆われた自らと外界との結界を取り除き、この世界とより親密になって、自らが立つ世界と絵画の中でさらに濃密な関係を築くことで、画家はマグマ煮えたぎる命の泉をタナトスから解放しようとしている。そして、それは恐らく、幻視者のみが知る、真の世界の映像なのである。 神保京子(じんぼ・きょうこ) 東京都写真美術館学芸員として勤務した後、東京都現代美術館を経て、2011年より東京都庭園美術館学芸員。1999年にはロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に滞在し、19世紀の写真家、ジュリア・マーガレット・キャメロンの調査を行う。主に写真やシュルレアリスムをテーマに展覧会を企画。手掛けた展覧会には、「川田喜久治 世界劇場」「シュルレアリスムと写真 痙攣する美」「岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟」等がある。 |